共栄ラーメン

ラーメンの軌跡 店主

1978年2月、からっ風吹く岩舟町に赤提灯を灯した。
ラーメン一杯200円。一軒のラーメン屋が誕生した。
『共栄ラーメン』の始まりだった。

店には当時流行ったテーブル型ゲーム機が1卓。
平凡のテーブルが2卓。
店に置くテーブルさえ買う金もなかった。
満席でも12人しか入れないような小さな店。
どんぶりの数は15個。
なんとか食っていける売上げがほしかった。
しかし、夕方5時にオープンして深夜まで営業してもたった1杯のラーメンしか売れない日もあった。

店主

麺切り
店主は悩んだ。
どうしたら、お客様に受け入れて貰えるラーメンができるのか?
何件ものラーメン屋の味を食べ歩いた。
旨いと聞けば、全国どこまでも食べに歩いた。

材料にお金をかけられない。
そこで思いついたのが、オヤジ(親父)がやっているバーベキュー店のオーブンで、焼いた鳥から出る油汁をもらいスープに入れた。
好評だった。
少し売上げがあがった。
貯まったお金で冷蔵庫を買った。

赤いビニールテントの看板で、店を覆った。
当時としては、かなり目立った。
噂を聞きつけ、お客様が増えた。

栃木のド田舎では、夏に大量の虫が飛び回る。
エアコンのない店内。
網戸を通り抜けた虫が、電球の周りをグルグル飛んでいる。
その虫がお客様の食べているラーメンへダイビングする。
虫たちには、店主が丹精こめてようがお構いなしだ。

「おやじさん!スープが虫だらけになっちまったよ!」
お客様に叱られた。
今度はエアコンを買った。

赤提灯から7、8年後、店を大きくした。
借金をした。

店主 大島茂夫の賭けが始まった。
麺もスープも試行錯誤を続けながら、お客様が「うまい!」と言ってくれる味になった。

寝る間を惜しんで、働いた。
ラーメン屋が嫌になった時期もあった。
毎日が戦いだった。

店主 大島茂夫は、さらに味の追究をした。
スープ作りに失敗した日もあった。
体に良いからと、アルカリイオン水を使用した。
材料費は掛かるがスープが旨くなった。
共栄ラーメン外観

店主 大島茂夫の人生最大の転機が訪れた。
若くて、元気な嫁さんをもらった。
飲食店育ちの嫁さんは、茂夫の思いつかないアイディアを出してくる。
茂夫と嫁さんの二人三脚が始まった。

ラーメンブームに乗り、店は賑やかになった。
売上げが一気に延びた。
お客様に還元の気持ちを込めて、仕込み食材も質の良い物を使った。
チャーシュー 感謝の気持ちでチャーシューも大きくした。

惜しいと思わない。
全ては「お客様に喜んでもらいたい」と店主の心意気だった。
さらに売上げが延びた。
元気奥様

『来店されるお客様が「もう一度食べたい」と心に残るラーメンを作りたい。』と店主は思っている。
汗・水流して打った麺、一本、一本に店主の想いが伝わる。
スープだって店主の本気が伝わってくる味だ。
麺、湯切り
一杯のラーメンでお客様に喜んで戴きたい。
地元以外にも遠方から、お客様が『共栄ラーメン』を食べに来てくれる。
だから想いを込めて毎日、毎日、麺を打ち、スープを仕込んでいる。
心に残るラーメンを作る。
麺切り
『共栄ラーメン』
店には元気なスタッフが汗を流している。
疲れた時も、旨いラーメンと働くスタッフが元気を与えてくれる。

元気の源、『共栄ラーメン』。
オープンから29年の歳月が過ぎた。




 

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